東北旅(2):小さな命の意味。震災遺構大川小学校が今に伝えてくれること
「石巻市震災遺構大川小学校・大川震災伝承館」へ向かう道すがら、広がるのどかな風景。でもそれはこの土地を知らず、あの震災を体験していないから言えることなのかもしれない。
現在残る大川小学校の周辺には何もない。
ここにあった暮らしは、津波によって、全て流されてしまったから。
震災前の大川小学校周辺
震災後
みなさんが気持ちを奮い立たせ、勇気をもって残していただいた「石巻市震災遺構大川小学校・大川震災伝承館」には、多くの悲しみ、苦しみ、辛さ、自責、後悔、さまざまな感情が溢れています。
自分なら何ができるのか。
それを考えることが、この地を訪れた意味だと思っています。
大川小学校が今に伝えてくれること
大川小学校では、2011年3月11日に発生した東日本大震災で、全校児童108名の内の74名と教員10名が犠牲となりました。学校管理下でこれほどの犠牲者が出た例は今までにありません。
あれだけの未曾有の災害が発生した際に、私自身が最善の選択を行い、小さな子供たちを守ることができるのか。このニュースやその後の裁判の件を聞いて思ったことでした。
ただ、現地を見てビックリしました。
裏山は驚くほど近く、
普段から子供たちは利用し、
少し登るとコンクリートでできた平坦なテラスがある。
この場所に避難しようと思うことは、それほど難しい判断ではなかったのではないかと、どうしても思ってしまうんです。
後で言うのは簡単です。
実際に私が同じ状況で、最適な判断ができるとは限りません。
大川小学校津波事故訴訟の第一審判決では「当日の避難行動の過失」、控訴審判決では「発災前の防災対策の不備」が認められています。万が一の場合、特にこの未曾有の災害で、最適な判断ができるかどうかは、やはり事前の備えがないと行動できないと思います。少なくとも、私には自信がありません。
学校・教員の責任だけではなく、それを指導・サポートしてこなかった行政の責任も大きい。もしかしたら、行政だけではなく、もっとみんなでできることがあるかもしれない。
最悪の事態に備え行動する。
「大げさだったかもしれないけど、何もなくてよかったね」が合言葉になりますように。
震災遺構大川小学校・大川震災伝承館
私たちが「石巻市震災遺構大川小学校・大川震災伝承館」を訪れたのは8月の土曜日だったのですが、人が途切れることはなく、小さなお子さんを連れたお母さんの姿や家族連れの方もいらっしゃいました。
住所 | 〒986-0111 宮城県石巻市釜谷字韮島94番地 |
電話番号 | 0225-24-6315 |
開場時間 | 午前9時から午後5時まで |
休館日 | 毎週水曜日、年末年始 |
公式サイト | 石巻市震災遺構 |
校門です。ここから小学校に入るのですが、見て分かるように裏山はすぐそこなんです。
小学校の跡地の向かいに大川震災伝承館と慰霊碑があります。
大川震災伝承館
大川震災伝承館には、現地では入ることのできない校舎内を見ることができる「バーチャル校舎見学」や震災前後の様子、事故の経緯や裁判についてパネルなどで展示されています。
展示の最後にあったメッセージボードに掲載されていた想いです。
見えているもの、言葉にできていることが全てじゃないんですよね。
震災遺構大川小学校
校舎と
校庭を挟んだ奥に裏山があります。
津波により、天井や壁(ガラス窓)は崩れ、スピーカーは折り曲がる状態に。
津波の高さは、8.6m。2階の天井にも津波の跡が残されています。
支柱が根元から折れる渡り廊下。
校舎裏のプール。
野外ステージを囲むカラフルな壁。
校庭から裏山へ抜ける道。
裏山の柵の向こうに、白い看板があります。
これは津波到達点を知らせるもの。
こんな高さまで、津波が押し寄せていたんです。
裏山に入る入口。毎年3月にシイタケ栽培のため子供たちが訪れていました。傾斜は9度。
途中、低学年では急かなと思うところもありますが、距離は短いので、大人の手を借りれば問題ないと思われます。ここを登ると…
コンクリートのテラスが当時からありました。
テラスから眺めると、足元にあの白い看板が見えます。ここが津波の到達地点。
ここに登ってさえいればと思うと、悔しくて、悲しくて、涙が止まりません。校庭に集まった子供達から見ても、すぐそこなんです。
本ページの内容は、現地での展示内容や「小さな命の意味を考える 第2集 宮城県石巻市立大川小学校から未来を考える」の冊子から引用させていただきました。この冊子には、学校を残すことの意義や思い、事故当時のこと、裁判のことなどがまとめられています。
これからも何度も手に取り、私なりに考えていきたいと思っています。